2016年5月9日月曜日

初めての禅体験

このゴールデンウィークに生まれて初めて禅の1日体験というものをしました。
単に一度経験してみたかったというミーハーな理由でしたが、
なかなか不思議なことが起こり、
意義深いものになりました。
 
場所は鶴見にある大本山総持寺という、永平寺と並ぶ曹洞宗の大きなお寺です。
 
朝9時半に集合して、10時から、まずは写経。
昼食は老師様と一緒に禅の作法に則って精進料理。
午後は老師様の法話と禅堂に籠もっての座禅。
最後は修行僧に案内してもらって、諸堂拝観。
 
こうしたメニューをこなして、夕方4時まで、禅の修行体験を通して自分と向き合います。
 
写経は初めての体験でしたが、
最初は1字書く度に墨をつけ直さないとうまく書けませんし、
第一、筆が安定しないので、ヨロヨロして思うような筆運びで文字が書けないのです。
 
50名の参加者が、あちこちで半紙に透けている下敷きのお手本をめくる音や、
ま後ろの人の咳き込む音が気になり、
なかなか集中できずにいたのですが、
5~6行書いた頃でしょうか、ようやく筆の止めと払いの抑揚が安定し、
いつのまにか肩の力が抜けていることに気づきました。
 
うまく書きたい、間違わずに書きたいという気持ちが先立って
つい体に力が入っていたんですね。
 
お昼の精進料理は、思いの外、豪華で、味付けもだしを利かせた美味しいものでした。
老師様に食べものという命をいただく意味など教えていただきながら、
作法通り、1滴のおつゆさえ残さずいただきました。
 
午後は老師様の法話で禅の考え方についてお話を伺い、
その後はいよいよ禅堂に移動して座禅です。
 
高さ80㎝ぐらいの畳の敷かれた台に上り、
クッションのような丸い座布団をお尻の下に敷いて座禅を組むだけでも、
触れてはいけない板場があったり、足や手の組み方があり大変です。
 
薄暗いお堂の中には大きな文殊様が奉られており、空気は凛と静かに張っています。
座禅が開始されると、更に堂内は暗くなり、
半眼に目を伏せているので、目の前は霞んでしか見えていません。
 
組んだ足の痛みが気になって、これがどのぐらい続くのか、
自分はちゃんと耐えられるのか、心配がよぎります。
 
しかし、しばらくすると、その場に50人もの人が座禅を組んでいて、
修行僧が後ろを見回っているという気配が全く感じられないほど、
心が落ち着き、体も微動だにせず座っている自分に気づきました。
 
座禅を始めて1時間近く経った頃でしょうか、
ふいに昨年暮れに亡くなった友人とおぼしき気配がして、
「私は今度はメキシコ人に生まれるつもりなの。
今は誰のところに生まれようかと両親を捜しているところ。
今回は男性よ」と言うではありませんか。
 
その友人は67才という若さでしたし、
「自分の人生がこんな風になるなんて思っていなかった」と私に言って、
脳腫瘍で何度も手術したり
抗がん剤の副作用で苦しんだことを嘆いていたので、
この世に悔いを残していたのではと案じていたのです。
 
けれど、その声はどこか晴れ晴れとして、もはや、転生の準備に入っていると知って
私はすごくホッとしたのです。
 
単に一度体験したかったというミーハーな私でしたが、
この日、座禅をした意味がわかったような気がしました。
 
昨年末、友人の死を1枚のハガキで報されて以来のもやもやした気持ちが、
すっと晴れていくのを感じました。
 
人は誰しも死に向かって生きています。
 
どんな人にも必ず訪れるのが『死』というものですが、
友人が自分の死を受け入れたことを、魂のメッセージとして受け取り、
私は穏やかな気持ちで座禅を解くことが出来たのです。
 
 


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